正法眼蔵『菩提薩埵四摂法』第2回・布施「広い世界を治める力があっても」

道元禅師の『正法眼蔵』菩提薩埵四摂法の巻を、ひと区切りずつ読み進めています。前回は「貪らず、へつらわない心」をたずねました。今回はこちらです。

引用部分は原文とその現代語訳、その他は解説です。

原文

たとひ四洲を統領すれども、正道の教化をほどこすには、かならず不貪なるのみなり。たとへば、すつるたからを、しらぬ人にほどこさんがごとし。遠山のはなを如来に供じ、前生のたからを衆生にほどこさん。法におきても、物におきても、面面に布施に相応する功徳を、本具せり。

現代語訳

たとえ広い世界を治めるほどの力を持っていたとしても、人々を正しい道へ導こうとするなら、貪らない心が欠かせません。たとえば、惜しむべき宝であっても、それを見ず知らずの人に差し出すようなものです。遠い山に咲く花を仏に供え、前世から受け継いだ宝を人々に施す――そのように、どんな法であっても、どんな物であっても、それぞれに応じた布施の功徳がもとから具わっているのです。

ここでの「広い世界を治める力」とは、王のような特別な立場に限った話ではないと思います。人の上に立つ、頼られる、影響力を持つ――程度の差こそあれ、私たちも家庭や職場、地域の中でそうした力を持つ場面があります。力があるほど、それをどう使うかを自分で決められる範囲も広がります。だからこそ、人を正しい方向へ導こうとするときほど、貪らない心が問われるのだと思います。

続けて道元禅師は、「見ず知らずの人に宝を差し出すように」「遠い山の花を仏に供えるように」と、布施の姿をいくつも重ねています。見返りを期待できない相手にこそ差し出す。誰のためというはっきりした狙いもなく、ただそこにある美しいものを差し出す。そうした行為の一つひとつに、すでに布施の功徳が具わっている、と言うのです。功徳を積んでから立派な人間になるのではなく、貪らずに差し出すというその行いの中に、はじめから功徳が宿っている――そう捉えると、日々のささやかな与える行為も、決して小さなことではないのだと気づかされます。

次回は「自分のものでなくても、少なくても」をたずねます。

合掌